fujikawa

 7月23日、東京オリンピック開会式の日、東京浅草の木馬亭で“琵琶法師 山鹿良之”の映画会が開催される。映画を製作した長嶋さんから電話で聞いたのは4月半ばだった。
 熊本に住む私は、山鹿さんの語り琵琶を研究するヒュー・デ・フェランティさんと共に山鹿さんの家を訪ねていたのが1992年。居間に座っていると、電話がかかってきた。
 「映画の人から…」ちょうど、この長編記録映画が製作されていた頃だった。
 私はヒューさんを車に乗せて山鹿さんの家までお供するだけだったが、その時の様子を書いたエッセイが邦楽ジャーナルに特集(1992.vol.71最後の琵琶法師「山鹿良之」)で掲載された。
 
 『琵琶弾きは見かけじゃなか。芸をみがけ。』…送られてきたチラシを見て、コロナ禍の今、箏奏者として生活できない私の胸に強く突き刺さってくる。
 生きることと、芸をすることは同一線上にある。そのことを今ほど身に染みて感じる時はない。山鹿さん「今日は何がよかでしょか?」、客「何でん出来っと言うのか、生意気な口ばきくな。」芸を覚えることと、米を食べることが、同じであった。その意味が今はわかる。
 それから15年後、2007年5月、メルボルンで偶然ヒューさんと再会した。
 オーストラリア行の長いフライト中に、普段中々読めない物を持っていこうとバッグに入れたのが、ヒューさんと木村理郎さんが監修した3枚組CD 「肥後の琵琶弾き 山鹿良之の世界」(平成19年度文化庁芸術祭優秀賞)の分厚い解説書だった。  
 尺八家アンさんとのコンサートが終わった帰りに、彼女からあるパーティーに誘われてモナッシュ大学へ行ったら、そこにヒューさんがいた。実は、ヒューさんが企画した地歌研究家フィリップさんの就任祝賀会のパーティーだった。
 その時私は、たまたま持っていた山鹿さんのCD解説書をバッグから取り出して彼に渡し、彼はとても喜んでパーティーで紹介してくれた。
 モナッシュ大学の日本文化研究は有名で、第一人者である時田アリソン教授が日本古典芸能を深く研究されている大学だった。ヒューさんはそこで“山鹿さん”について語り、その話題で会場は大いに盛り上がった。

 最近、CD1曲目に収録の「ワタマシ」(1963)を聴いた。『ビワでタマシイ』を入れる新築祝いに語られる曲だが、私の知る山鹿さんより、声も若く琵琶の滑りも活舌もいい山鹿さんがいる。まだ竈に神様がいたころに、多くの人々が山鹿さんの正月の竈払いや新築祝いで祈りの琵琶を聴いたことだろう。
 木村理郎さんは、山鹿さんが人々の生活の中で起こる災いへの祓いや祈りを行う宗教者としての役割も当時の人々にとってまた重要だったのだろうと語られる。
 疫病が続く苦しい状況におかれた今、山鹿さんの姿は私たちに何を投げかけてくるのだろうか?
令和3(2021)年5月27日


mikirou

 調弦をするときは、舌で琵琶の糸をさぐり、食事のときは、舌で箸の上下を確認し、米粒にまみれた茶碗を口に運ぶ。酒を舐めるように飲むときの舌。演台から語り物をするときの、激しくそしてなめらかに動く舌。黒光りのする桑の木で出来た琵琶でさえも、その全体が琵琶法師山鹿良之師の舌で、七十年間かけて舐めまわされてきたのではないか。
 映画「琵琶法師山鹿良之」が見せるのは、このようなたぐいまれなる触感である。今年九十一歳になる盲目の肥後琵琶法師が、生涯、自らの舌で確認し、築き上げてきた世界。それは音と声によって形づくられていて、文字とは無縁の世界だ。その豊かな世界が、わたしたちに衝撃を与える。
 山鹿師の語る「小栗判官」の物語は、師にとって昔の話や、他人事ではない。琵琶弾きの語りのコツは「その身になって語ること」に尽きるというのが師の持論だが、貴種流離譚、死者がまた甦るという世界は、実際に山鹿師自身が、この世で見てきたもの。人間の悲劇と喜劇を舌でこじ開け、舌によって一本の糸で綴じあわせる。その物語を伴奏するのが琵琶であり、力をふるうのが師の声である。
 琵琶はかつて神の声を伝える聖なる楽器だった。その聖なる楽器を、盲目の法師が奏でる。中世から始まったこの語り物の芸能の世界は、現在は北九州に残されているだけであり、なかでも山鹿良之師は最後の琵琶法師と呼ばれる。文字ではなく、耳から耳へ、口語りで伝わってきた琵琶語りの「声の文化」をあますことなく伝えているのは、山鹿師だけだ。四歳のときに左目を失明。二十二歳のとき天草で琵琶弾きの修行を始め、徐々に悪くなる右目と戦いながら、普段は民間宗教者として、琵琶を持つと門付けの芸能者として活躍してきた。以来、現在まで七十年。今や耳も遠くなり、両目とも見えない。
 その人が言う。「琵琶弾きは見かけじゃなか。芸をみがけ」。映画の中で山鹿師が言うこの科白は、自らの舌で確認してきた、人間という動物が生きるときの本能的な祈りの声である。
(1992年公開時のチラシから転載)

panta

 1992年7月、浅草は木馬亭にいた。御年91歳になられる琵琶法師、山鹿良之さんの語り謡いに浸らせてもらうために。
  『日本幻野祭三里塚』をはじめ数々のドキュメンタリーを発表している青池憲司監督に声掛けてもらい、もう見られる機会もないだろうからと初めて琵琶法師なるものを見聞きする体験を得られた。琵琶法師なるもの平家物語を語り継いでいく歴史上の存在としか知らなかった。しかし、こうして現実に弦を叩くバチの音、年齢を感じさせない活舌の良さと表情をたっぷりと塗りこめられた張りのある生声を聴かせてもらい、歴史の深潭に夢遊するかのようだった。
  この体験で初めて、バチを当てて叩く肥後琵琶と、表面を桐で覆われバチを当てずに優しく奏でる筑前琵琶との違いも知ることが出来た。もともとは中近東のウードなどから流れ伝わったものだが、生ける伝説、山鹿良之さんの口から弾きだされる「小栗判官」にそれは魂もとろけんばかりであった。
  そんな貴重な体験をさせてもらった山鹿法師。95歳で浄土へ旅立たれたとのこと、焼香の煙の中で合掌させてもらいながら、この貴重な映像に少しでも関わらせてもらったことに感謝するばかりです。


itou

ギラギラの老婆を前に琵琶抱いて「穴から生まれた法師」ノリノリ

長い指琵琶にからめて愛撫して生きて仏の 山鹿良之

老法師小ぶりの琵琶を抱きかかえ仏となりて 耳穴深く

指が弾く琵琶の音(ね)民の心撃ちまだ見ぬあの丗瞼の裏に

けだものの法師遊行し琵琶語り 小栗判官遊行寺の道

★     ★

福耳の法師に届く音わずか されど出る音艶やかなりし

琵琶を弾く法師の長い指を見て肌潤わせ老女うっとり

奥さんと添い寝る法師自然体 人はこうして人を愛せと

★     ★

遊行寺の(小栗判官)墓前にて「何があっても、われ黄泉帰る」


itou

 都会の鄙で行われた今回の野戦攻城のプレイベントとして、水族館劇場はお芝居と結びついた音楽をテーマにした展示を古本遊戯・流浪堂でおこなった。その軸のひとつが、ニッポンの伝統芸能や、独自の発展をとげた、大衆音楽と呼ばれる音群だ。杉本キクエ、海神道祖、若松若太夫、鉄砲光三郎、藤井ケン子。有名なところでは三波春夫など。どれもぼくが若い頃夢中になって聴いた。今回の映画はそれらの芸人の列につながる肥後琵琶の名人、山鹿良之師の幻ともいえるドキュメンタリーだ。楽しみにしています。

momoyama

 シルクロードを経由して日本に渡来した琵琶には、大別してふたつの系統があった。ひとつは、畿内中央に公式ルートで伝えられた雅楽琵琶。もうひとつは、大陸から直接九州地方に渡来したとみられる琵琶法師の琵琶である。
 琵琶法師の琵琶は、携帯に便利なように、雅楽琵琶よりもひとまわり小振りにできている。棹のにぎりが太く、柱(フレット)の数も多いという独特のつくりだが、『平家物語』などのさまざまな物語を語り、祝言や竃祓いなどの民間の宗教儀礼にたずさわった琵琶法師は、16世紀の末頃から、しだいに新しい三味線音楽に転向していった。東北地方に伝わった奥浄瑠璃や有名な津軽三味線は、いずれも座頭三味線の系統である。近世の語り物音楽を代表する浄瑠璃・文楽も、もとは座頭(男性盲人)の三味線芸として出発した。
 時代の流行が琵琶から三味線へ移行したなかで、しかし九州地方だけは、座頭の琵琶が江戸時代以降も行われた。理由のひとつは、盲人の琵琶演奏が九州では、竃祓い・わたまし(新築祝い)などの民間の宗教祭祀と密接に結びついて存在したからだ。法具としての琵琶のあり方が、三味線との交替を困難にしたのだが、芸能者が同時に宗教者でもあるという古代・中世的な芸能伝承のあり方は、九州の琵琶法師によって近代まで伝えられた。
 山鹿良之さんは、明治34年(1901年)3月、熊本県玉名郡大原村(現南関町小原)の農家の三男として生まれ、4歳で左眼を失明、22歳のときに天草の座頭、玉川教節のもとに弟子入りした。三年後いったん郷里にもどり、再度福岡県大牟田の玉川教山について修行したあと、昭和3年(1927年)に独立して玉川教演と名のり、熊本県北部や福岡県南部を中心に昭和40年代まで活動した。
 その放浪芸的な活動実態といい、全貌を把握しがたいほどの膨大な伝承量といい、山鹿さんはまさに日本最後の琵琶法師だった。研究者用語で、オーラル・コンポジション(口頭的作詞法)といわれるその自在な語り口は、文学・芸能史を研究する者にとって、きわめて貴重な研究対象になっていたが、そんな研究上の関心をはなれても、聴く者を強く引きつけてやまなかったのは、山鹿さんの芸がもつ独特の説得力であった。
 琵琶語りひと筋に生きた山鹿さんは、常人の想像を絶するような生活苦のなかで5人のお子さんを亡くすという悲運にも見舞われた。だが、そんな逆境のなかから生まれた山鹿さんの芸には、聴く者を身ぶるいさせるような説得力があった。
 山鹿さんが語る小栗判官や俊徳丸の物語が、山鹿さん本人のライフ・ヒストリーと重なりあい、まさに小栗や俊徳丸が復活・転生する現場に立ちあうような異形なリアリティを生み出したのである。
 そんな日本最後の琵琶法師、山鹿良之さんは1996年に満95歳で他界した。1993年から3年あまりは介護施設で療養する日々だったが、今回上映される『琵琶法師 山鹿良之』は、琵琶弾き座頭としての山鹿さんの現役最晩年のすがたを記録している。日本の放浪芸人の最後をみとった貴重なドキュメンタリー映像である。

aoike

 山鹿良之さんを、わが隣人、とよぶのは、人生の先行者である人にたいして礼を失することになるかもしれないが、実感である。
 山鹿さんの家にはじめて踏み入ったとき、わたしが感じたのは安堵の心もちだった。それは、夏の暑い日盛りに大樹の下で涼気につつまれるような気分に似ていた。その心もちは、山鹿さんの家が、子どものころ通った田舎の祖父母の家と同じように、古い日本家屋のたたずまいをとどめていることからきたものであろうか。いや、そんなノスタルジーではない。
 山鹿さんとキャメラを介しての友誼のなかでおいおいと感得されていくのだが、安堵感は山鹿さん自身がもっている日々の過ごしかたからくるものであった。山鹿さんの日々の刻みかたに接することが、わたしが求めていたものかもしれないと悟らされたとき、創(つく)りつつある映画のあるべき像(かたち)が見えたと思った。
 山鹿さんは1901年 (明34)、熊本県南関町に生まれ、撮影時の1992年もそこに住んでいた。22歳のときに、九州に中世から残る琵琶語りの世界に入リ、以来70年、琵琶一本かき鳴らし、20世紀日本社会の基底部を生きてきた人である。
 4歳のときに左眼を失明し、右眼も光を失いつつあり、聴力もおぼつかないのがその当時の身体的状態だったが、東に「わたまし」(新築の家に魂を入れる儀礼)や「かまど祓い」あれば行って「般若心経」を唱え、西に演唱会あれば出かけて「小栗判官」を口跡あざやかに語る。その芸は、地元の人が親しみをこめて呼ぶ「琵琶弾きさん」で70年間メシを食いつづけてきた人のものだけに、91歳の当時でもさすがというほかなかった。
 山鹿さんの語り物の持ち外題は40以上。これは圧倒的な伝承量で、かりにその全部を語ったら200時間にも及ぶという。しかも、山鹿さんの語りにはテキストがなく、おぼえこんだ外題をそのつど自在に語りこんでいく流儀である。なかでも「小栗判官」全7段・約6時聞を通し語りすることができるのは、山鹿さんただひとりといわれていた。
 映画は「小栗判官」全段 ─ それは山鹿市の八千代座、柳川市の若宮神社、南関町の旧家の座敷、東京浅草の木馬亭を舞台として語りつがれていく ─ の語りを縦糸に、山鹿さんの日常のくらしぶりを横糸に織りなして構成されている。
 山鹿さんもとより無名の人。であるがゆえに、自分の規矩をもって生きる庶民のひとりである。芸の力と日々の過ごしかたが渾然一体となって醸し出す人となりこそ、わが隣人・わが同時代人とよびかけたくなる魅力であり、わたしたちが撮りたかったものだ。
 映画のなかで、「琵琶弾きは見かけじゃなか、芸をみがけ」という山鹿さんのことばは「生さることをみがけ」とわたしにはきこえた。

wajima_yusuke

日常の発話が、その韻律そのままに、ある瞬間、琵琶の響きとともに「今ここ」を超越した物語世界を運ぶ媒体に変化する。生活と信心と娯楽が一体化した暮らしの中に、柔軟でしたたかな芸が息づいている。ついこの間まで営まれてきた芸とそれを生み出し受け容れる環境が、このまま死に絶えるはずがない。小栗判官物語になぞらえれば、今はまだ湯治の途中。復活まであと何日だろうか。そして、どんな姿で復活するのだろうか。
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